月刊 根本宗子 第17号 「今、出来る、精一杯」

再演で、前回は観劇しておらず、第16号「墓場、女子高生。」は観て今回も。


面白かったです。ただ、個人的な感想としては、絶賛には少し足りない印象もあります。


脚本は細かく、心情や性格を補佐するための言葉が散らしてあり、カリカチュア的な、どもり、車椅子などの身体的な特徴から、国籍、服装、などの聴覚・視覚的な情報でもキャラをわかりやすく飾っていて、話を動かすための人間関係が上手いと思いました。展開しやすいように駒が揃っている印象で、それは「墓場、女子高生。」でも感じた部分であり、そして外的な印象とは違う反面的な心情を混ぜて、語らせるのが根本さんの方法論のひとつなのかな、と。


音楽劇、という事でミュージカルの要素と生オケがあり、各ナンバーはそれほど長さがなく、主要となる2曲を主演、滝竜人さん演じる安藤が歌い上げるところはミュージカル全開でしたが、その他はあくまでも要素なイメージなので「キャスト全員で」歌うところに意味があってもいいかなと。ミュージカルでないといけない、という事ではなく、せっかく人間のアンサンブル劇なので一体感があれば、より面白かったかとも思うのが、絶賛に足りない印象のひとつかもしれないですね。歌をそれぞれの登場人物でちょっとずつ割るのも手かと。技術の問題もあるので、出来るかは別で、その要素は最後まで温存、という事だったのかもしれませんが。


役者陣は優秀で、特に気になるところはないものの、話の上では根本さん演じる長谷川が後半に出てくるのですが、明らかに力が有り余っていて、慟哭が長く全力過ぎて長台詞の抑揚がフォルテッシモ〜フォルテッシシシモくらいになっていたので、利根川の役も相まって強い動きがつくかと思いきや、しゅん、と閉じたので、おや?と思っていたら、ずっとお弁当を力強く食べてて、力有り余ってる印象だけはまったく消えなかったですね。体力…。


凄い良かったのは、主観ですがこの劇の主役にしか見えない「私の思い」役のお三方、特にrikoさんの振りと踊りが個として最上過ぎて、ある意味で凶暴だと思える良さを発揮していて、劇そのものの見た目、感情面でプラスになりつつ、繊細で大胆で、役者の上の位置に感じてしまうほどの存在感。動き、という点で最強なので、雄弁過ぎて物語を乗っ取りかねないので、後半出番がほとんどなかったのは劇として英断だったと思います。それくらい素晴らしい踊り手、というか広義の演者だと思ってます。唖然とする程に。


おそらく自分が最もうーん、と思っているのは休憩が入る事です。

タイミングがあそこしかない、とは思いますがだいぶ雰囲気が変わってしまったのが惜しい。前半100分、後半50分、というバランスは感覚がリセットされてしまったので、始まったら急展開、というのについていけず、前述の長谷川に感情がついていけなかった。

あとは意図的に台詞が繰り返しになるようにしているので、時間という部分に関しては精査すればもう少し詰められる印象ですが、できるだけ会話らしさや心象を優先した結果かなと考えられる節はあります。


とはいえ、見応えもあり、美術も動きに効果的で、見て良かったと十分に思える内容でした。


ごくごく個人的に疑問符があったのは、休憩前の歌が終わって、誰も拍手しなかった点。

「あれ?」ってなる自分の感覚が可笑しい。そして、意外とミュージカルの定番さが好きなのか、と気付きがありました。

 

ホットギミック 〜ガール・ミーツ・ボーイ〜

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現在、日本で最も若くして有名になった山戸結希監督の最新作。

自分自身も他にもれず、最高の映画監督の一人として、邦画で最も期待値が高く、好きと全力で言える監督です。

ただ、自主制作の「おとぎ話みたい」や他の短編に比べると前作「溺れるナイフ」は商業の壁とでもいうか、山戸結希節が少ない作品だと感じていました。原作を踏襲し、主役を作品の中で見せる、相乗りのような印象がどこかにありました。

先に監督自身のキャラクター性をかいつまんで言うとすれば、圧倒的な映像演出の多さ、引き出しの多さ、台詞量と、まくし立てるような音の流れ、そして「女の子」という存在についての独白が大きな要素を占めています。過去に監督のトークショーで言っていた [韻を踏む] ことや語感の良さに加え、音へのこだわりも強く、ひとりの脚本家としてでも大きな文才を持っている稀有で唯一の存在です。

また、映画をこよなく愛している事を作品それ自身が示しているほど、多種多様な映像になっています。発想の点においてそれは顕著で、動きを示す場合カットを限りなく細かくつないだと思えば、スローモーションの演出があったり、ロングショットの長回しがあったりと、本来はあまり相容れないようなものを成立させる為に、その間を繋ぐ術を様々な映画作品からインスピレーションを受けながらてんこ盛りにして作っている、そんな気がしてならないのです。

 

前置きが長くなりましたが、そんな山戸結希監督の最新作が「ホットギミック 〜ガール・ミーツ・ボーイ〜」です。

 

今回の作品の個人的な総評をサクッと話そうとすると

[最上の映像演出の嵐と微妙な話に最高の台詞、一人で噛み砕くべき傑作]

というところです。

 

おそらくですが自分は一人で映画を見る事にしているので問題ないのですが、誰かと一緒に鑑賞した場合、感想が難しい作品である事は間違いないと思います。そのためか、ネット上でのレビューはあまりよろしくない。不特定多数がお互いに勧める事を考えれば、当然と言えば当然なのですが…。

本作の鑑賞前に自分はセブンズルールというドキュメント番組にて情報を入れてみましたが、もともと「たったひとりの女の子の為につくっています」というのが山戸結希監督の作品の根底に存在している、制作理念というべきものがあります。

そういった意味でも、エンタメでもなく、他の同調を求める作品でもなければ、わかりやすい指標もない。そのためか、映画対自分、の構図になりがちです。

今回も前回同様に原作があります。そちらは未読なのでなんとも言えない部分になってしまいますが、大団円というよりも、雰囲気は高揚しているものの、あっさりとそれが

腑に落ちるだけのラストにならないのも、個人的には魅力ですが、そこまでの話の持っていき方が真っ直ぐにはならない事も多く、短編の方が万人受けしやすいと勝手に思っています。

 

話は好きだった男の子に裏切られ、失意の女の娘が好意を持っていた男の子と仲を進展させるものの、そちらも外的な要因でうまくはいかず、また一方で兄にも好意を持たれていて…のような4角関係&妹のもう1組、みたいなお話です。端的に言えばドロドロ少女コミック、知っている方ならフラワーコミック的な性自認と性にまつわる高校生コミュニティの辛さのお話。

正直自分はあまり好きな話ではありません。

もちろん山戸監督は綺麗に撮る事が大前提なので、直接的な表現は避けてますし、そこを描くとあまりに陳腐かなというところまでは映しませんが、ピュアさ(鈍感さ)を持つ意思の弱い自己肯定感の薄い女の子、という存在と、決定的にわざとらしいしゃべり方の男性陣の葛藤を2時間持たせる為に、外的な要因、置かれている環境での不幸と言い換えてもいいものが、どんどん出てくる話です。

3年ほど前まで、そこそこの数の自主映画をテアトルやK's cinemaなどで見てきたのですが、[セックス、ラブホテル、レイプ、自殺、殺人、売春、中毒、毒親] のどれかが大抵の場合、作品上の負荷として現れます。表現方法の一つで虚構の作品の中なのでそこまで毛嫌いしなくてもいいんですが、物語を動かす強いベクトルとして、雑な圧力として、人物を動かすための方法論で使われてしまうと、「あ、安易」のような感想を持ってしまうまでになりました。

今回の作品にも近いものが出てきますが、そこをうまく使いつつも回避、というのが山戸監督の上手さでした。1回におわせて回避、でも別の方法で同じ要因を入れる、親が問題でも、親自身には語らせない、など誇張できる部分もあえて微妙な形で押さえ込んでいるものの、不快さや、描写の程度は下げないようにしているところがあるな、と見ていて思いました。「親なんて関係ないじゃん」のようなセリフも肯定できるものの、あえて言わせる事で気にしている表現に置き換えていて、否定の意味に変えたりと、手がこんでいます。ただ決定打としての動きにしないので複雑にも見えるところが、あまり共通言語的なレビューで不評な部分でしょうか。

なのである程度、どこかの部分に自己投影ができないと、こっちはこう、みたいな判断をしながらでないと話についていききれないとも思います、2時間と長いのもありますが。

自分自身は前述の負荷のかけ方がやはり好きではないので苦手とする部分です。ただそれでも台詞運びは面白く、現実味がない、と言えばそうなのですが、まぁそこは劇映画ですし、何よりも撮影と動きの方が全く現実味がないほど尖っているのが、本当に良い作品でした。

 

撮影手法の多様さは、初見でも圧倒されますが、自分のような、監督で作品を追った場合には、映像演出で重複する部分も少なからず存在します。ただ、毎回その精度に変化があり、今回もまた違った印象があるので、監督自身の求めるクオリティの追求のようにも取れるので、今後とも楽しみな部分です。構図のための動き、動きのための配置、人物の動きを優先する事もあれば、カメラの動きを優先させてそこに落とし込むなど、素晴らしいです。今回は階段を下る描写が秀逸だったと思います。

ただし、それが万人にとって最高かと言えば、それはそれ。橋の上での会話などはやりすぎともとれるレベルのカットの切り方でしたし、ココアをこぼすシーンは中島哲也並にシュールで、あれ?って思ったりもします。

演出が凝りすぎているので、最高なのですが今時の一般層には受け入れられるのか?という部分が素晴らしい監督過ぎて難しいところです。

 

本音ではこれ以上にシネコンで上映すべき作品はないと思うのですが、興行という点においてはなんとも言い難い。ただ、「たった一人の女の子」のため、今作では要素にない田舎に住む女の子のためには必要な商業への転向だったのかな、と見終わった後に思いました。その結果、今作が多くのスクリーンで、ミニシアター以外でかかったのですから。

もしこの作品をファミリー向けの映画しか見ていない、鬱屈した女の子が見れたとしたら、誰かにとっての僥倖になるような、画面の強さを持った作品ではありますし、監督自身がその機会を増やすために努力している、そんな気がしました。

 

と、かなり宗教的な監督なので、ハマったら最後、のようなところもありますし、独白が賛美歌にも思えますね。

次作も期待していますが、環境的に完全に自由であった自主時代のように、ご本人のお話を望んでいますが、これだけの才能なので、周りが原作を持って次々に現れてそうでほっておいてくれはしなさそうですね…。

さよならくちびる

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久々に見てる途中で演出を考えてしまった。それくらいに演出と撮影がずっと同じ。半分を超える前にそこそこな尺でしかカットが切られないところから不安を感じてしまった。

無音やテロップ、長回しの手法は集中を見せる時には有効だけれど、ここまで作品を通して同じようにするのであれば、むしろ素舞台の演劇のような方法で作品を成り立つようにするのも手だったのでは、などドッグ・ウィルが頭をよぎった。ただ、退屈を感じながらも最後まで見れた理由は何かあるかもと思わせる役者陣の表情の力かもしれない。

口数は少なく、雰囲気で感じろ、という作風なのはいいけど、ならファンの女の子2人だったり、途中で襲ってきたあのバンドはいったい何の意味があったのだろうか。音楽も曲はいいけれど、このハルレオを意識したBGMの構成に関しては明らかに曲数が足りない。この曲数でミニマルに構成するなら、細々とした事件はいらなかっただろうし、ライブもあんなにカットを切らないでいいかもしれないとすら思う。

兎に角コンセプトと映像演出がチグハグな印象を受けた。原案としては良いけれど、キャラを構成する対話などの要素が足りないかな。

個人的にはイマイチな印象。もったいない。

ウィーアーリトルゾンビーズ

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エンタメや、実話系の公開が続くなか「劇映画」を久々に感じる作品だった。

単純にサウンドデザインや音の配置、音楽の良さも特筆すべき点だと思うけれど、それ以上に1本の話として真っ当でないが破綻しないバランス感が印象に残った。

撮影の手法も様々ながら、わかりやすくPV部の一発撮りは素敵で効果が高く、常に遊び心があるのも良い。まわりの大人陣は、顔がわかる俳優だし菊地成孔のようなネタも散りばめているけれど、そこに頼るような演出でないのはとても好感があって、作品自体の邪魔にならないのも良。

楽しめる作品でもあるけど、サブカル的な肯定も否定もないのが見た後の余韻につながって、いいなぁと。

 

絶賛ではないけれど、こういった作品が新しい「日本映画」になっていくのかな。もっと役に負荷をかけた作品が今までミニシアター系で多かった中で、割とすっきりな印象は考えてみれば珍しいのかも。

来る

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うーん、あんまりぶっ飛んだ情熱が来る事はなく。

とても熟練された映画だと思います。イメージの扱い方や、テンポに置ける各シーンの構成まで含めて、淀みなく、また集中を必要とさせる部分と、それを抜くシーンとの合わせ方がとても上手だと感じるほど。

ただし、この映画が特別 [ホラー] かと言われてみると、実はそうでもないのかな、と思ったのも確か。怪物や化け物の姿が見えない、という点ではなく、超常現象のオカルト部分が大半を占めている印象です。

それがどうかと言えば、この映画自体のエンタメさに起因しているように思えてくるんですよ。エンタメと一言では漠然としていますが、何も考えずとも見ていて面白い、展開に委ねて考える部分を必要とさせないように誘導できている気がしてならない。それを簡単にさせているのが超常現象だと思ってます。

超常現象が起きる事によってキャラのテンションが変化し、その次の行動へと導線をきちっと確保する。その流れに淀みがないように、あえてヘンテコな怪物や化け物と言った「疑問」を挟まないようにして、あくまで登場している「画面」の上での話を大事にしている印象でした。

 

と、真面目に語ったところで、この映画は確実に「渇き。」の反省からか、特別変なシーンがありません。

B級的な部分を多く抱えているはずなのに、笑ってしまうほどの展開や場面が少ない。求めているものとの乖離がありました。

強いて挙げれば、沖縄除霊師の車横転→トラックの流れはよかったですね。

あそこが本映画最大の見せ場だったと感じました。できればトラックがその後爆発してくれれば文句なしだったんですが、妙に普通に終わったのがちょっと足りない。

 

映画としてみれば普通に楽しめ、普通に面白かった、と言えるものです。

ホラーが苦手でも大丈夫なくらい音で脅かす演出も少ないので、どちらかといえば怖いものは苦手だけど、実はちょっと興味ある、くらいの人にちょうどいいザ・エンタメの映画です。

マガディーラ 勇者転生

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今年(正確には去年年末)、話題となった「バーフバリ」の前身にあたる「マガディーラ 勇者転生」を見ました。

「バーフバリ」は応援上映を含め、インド映画の露出を高めた作品として「きっと、うまくいく」に並び、今後語り継がれる作品となるでしょう。きっと草場の影でスーパースター ラジニカーントやシャールクカーンも喜んでいる事でしょう。

自分は「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」「スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え!No.1!!」「マッキー」などが好きなので、もっと多くのインド映画が日本で公開される事を望んでいるので嬉しい事でもあります。

 

さて、本作「マガディーラ 勇者転生」ですが、正直に先に言っておきますが、そこまで必須の映画ではありません。良い演出やシーンはなくはないですが「バーフバリ」鑑賞後であれば、ちょっと物足りないのは否めないと思います。

とはいえ、「バーフバリ」のその前という事はあの超展開の発想の一端が見れるはず、と勇んでいたのですが冒頭の現代パートのCGに身を乗り出して、その後はおとなしいもので、後半の瀕死の状態から剣を地中から拾い、文字どおり飛び上がるシーンぐらいが特筆すべき点でしょう。

踊りに関しても、そこまで重視されている印象ではなく、実際には日本国内に向けてだいぶカットされているとは思うのですが見所と言えるほどの圧巻さはありません。

だた、シャールクカーン主演映画にあった、エンドロールのスタッフを交えたダンスシーンは見ていて気持ちのいいものです。

自分自身が乗り切れなかった点としては、現代と過去で同じ話が繰り返されるところを、真面目に繰り返した部分です。インド映画としては比較的短い139分という尺の中では、もっと急いで話を進めないと勢いが出ない、と感じてしまいました。また、キャラ自体の使い方で言えば、現代のソロモンをもっと使えたのではないか、と思ってしまうのは「バーフバリ」の影響でしょう。その意味でも骨子の部分は似ているので、よりエンタメの流れを作る土台として考える作品だったのではないか、と思います。

インド映画としては中段に位置するぐらいの評価です。是非、こちらではなく、まずは評判の良いインド映画で、その世界観に慣れましょう。

 

 

ミッドナイトムービー

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ドキュメンタリーなので1本の映画作品としての組み立てや演出は抜きにして、登場する作家陣がやはり面白い。


特にジョンウォーターズの姿勢には感服。恥かしながらピンクフラミンゴ未見なのだが、下劣さ、というものに評価を与えたいというのは自分も思うところがある。


ロッキーホラーショーの深夜上映と現在の応援上映には共通項があると思っていたが、それ以上の乖離として大麻や当時の世相、時代の持つ反体制の熱気は狂乱の世界として魅力を放っていたと思うし、エルトポはそれを加味して語るべきとさえ思う。


そういった意味で、映画をより楽しむための、考えるためのドキュメンタリーとして、有意義な作品だった。