ホットギミック 〜ガール・ミーツ・ボーイ〜

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現在、日本で最も若くして有名になった山戸結希監督の最新作。

自分自身も他にもれず、最高の映画監督の一人として、邦画で最も期待値が高く、好きと全力で言える監督です。

ただ、自主制作の「おとぎ話みたい」や他の短編に比べると前作「溺れるナイフ」は商業の壁とでもいうか、山戸結希節が少ない作品だと感じていました。原作を踏襲し、主役を作品の中で見せる、相乗りのような印象がどこかにありました。

先に監督自身のキャラクター性をかいつまんで言うとすれば、圧倒的な映像演出の多さ、引き出しの多さ、台詞量と、まくし立てるような音の流れ、そして「女の子」という存在についての独白が大きな要素を占めています。過去に監督のトークショーで言っていた [韻を踏む] ことや語感の良さに加え、音へのこだわりも強く、ひとりの脚本家としてでも大きな文才を持っている稀有で唯一の存在です。

また、映画をこよなく愛している事を作品それ自身が示しているほど、多種多様な映像になっています。発想の点においてそれは顕著で、動きを示す場合カットを限りなく細かくつないだと思えば、スローモーションの演出があったり、ロングショットの長回しがあったりと、本来はあまり相容れないようなものを成立させる為に、その間を繋ぐ術を様々な映画作品からインスピレーションを受けながらてんこ盛りにして作っている、そんな気がしてならないのです。

 

前置きが長くなりましたが、そんな山戸結希監督の最新作が「ホットギミック 〜ガール・ミーツ・ボーイ〜」です。

 

今回の作品の個人的な総評をサクッと話そうとすると

[最上の映像演出の嵐と微妙な話に最高の台詞、一人で噛み砕くべき傑作]

というところです。

 

おそらくですが自分は一人で映画を見る事にしているので問題ないのですが、誰かと一緒に鑑賞した場合、感想が難しい作品である事は間違いないと思います。そのためか、ネット上でのレビューはあまりよろしくない。不特定多数がお互いに勧める事を考えれば、当然と言えば当然なのですが…。

本作の鑑賞前に自分はセブンズルールというドキュメント番組にて情報を入れてみましたが、もともと「たったひとりの女の子の為につくっています」というのが山戸結希監督の作品の根底に存在している、制作理念というべきものがあります。

そういった意味でも、エンタメでもなく、他の同調を求める作品でもなければ、わかりやすい指標もない。そのためか、映画対自分、の構図になりがちです。

今回も前回同様に原作があります。そちらは未読なのでなんとも言えない部分になってしまいますが、大団円というよりも、雰囲気は高揚しているものの、あっさりとそれが

腑に落ちるだけのラストにならないのも、個人的には魅力ですが、そこまでの話の持っていき方が真っ直ぐにはならない事も多く、短編の方が万人受けしやすいと勝手に思っています。

 

話は好きだった男の子に裏切られ、失意の女の娘が好意を持っていた男の子と仲を進展させるものの、そちらも外的な要因でうまくはいかず、また一方で兄にも好意を持たれていて…のような4角関係&妹のもう1組、みたいなお話です。端的に言えばドロドロ少女コミック、知っている方ならフラワーコミック的な性自認と性にまつわる高校生コミュニティの辛さのお話。

正直自分はあまり好きな話ではありません。

もちろん山戸監督は綺麗に撮る事が大前提なので、直接的な表現は避けてますし、そこを描くとあまりに陳腐かなというところまでは映しませんが、ピュアさ(鈍感さ)を持つ意思の弱い自己肯定感の薄い女の子、という存在と、決定的にわざとらしいしゃべり方の男性陣の葛藤を2時間持たせる為に、外的な要因、置かれている環境での不幸と言い換えてもいいものが、どんどん出てくる話です。

3年ほど前まで、そこそこの数の自主映画をテアトルやK's cinemaなどで見てきたのですが、[セックス、ラブホテル、レイプ、自殺、殺人、売春、中毒、毒親] のどれかが大抵の場合、作品上の負荷として現れます。表現方法の一つで虚構の作品の中なのでそこまで毛嫌いしなくてもいいんですが、物語を動かす強いベクトルとして、雑な圧力として、人物を動かすための方法論で使われてしまうと、「あ、安易」のような感想を持ってしまうまでになりました。

今回の作品にも近いものが出てきますが、そこをうまく使いつつも回避、というのが山戸監督の上手さでした。1回におわせて回避、でも別の方法で同じ要因を入れる、親が問題でも、親自身には語らせない、など誇張できる部分もあえて微妙な形で押さえ込んでいるものの、不快さや、描写の程度は下げないようにしているところがあるな、と見ていて思いました。「親なんて関係ないじゃん」のようなセリフも肯定できるものの、あえて言わせる事で気にしている表現に置き換えていて、否定の意味に変えたりと、手がこんでいます。ただ決定打としての動きにしないので複雑にも見えるところが、あまり共通言語的なレビューで不評な部分でしょうか。

なのである程度、どこかの部分に自己投影ができないと、こっちはこう、みたいな判断をしながらでないと話についていききれないとも思います、2時間と長いのもありますが。

自分自身は前述の負荷のかけ方がやはり好きではないので苦手とする部分です。ただそれでも台詞運びは面白く、現実味がない、と言えばそうなのですが、まぁそこは劇映画ですし、何よりも撮影と動きの方が全く現実味がないほど尖っているのが、本当に良い作品でした。

 

撮影手法の多様さは、初見でも圧倒されますが、自分のような、監督で作品を追った場合には、映像演出で重複する部分も少なからず存在します。ただ、毎回その精度に変化があり、今回もまた違った印象があるので、監督自身の求めるクオリティの追求のようにも取れるので、今後とも楽しみな部分です。構図のための動き、動きのための配置、人物の動きを優先する事もあれば、カメラの動きを優先させてそこに落とし込むなど、素晴らしいです。今回は階段を下る描写が秀逸だったと思います。

ただし、それが万人にとって最高かと言えば、それはそれ。橋の上での会話などはやりすぎともとれるレベルのカットの切り方でしたし、ココアをこぼすシーンは中島哲也並にシュールで、あれ?って思ったりもします。

演出が凝りすぎているので、最高なのですが今時の一般層には受け入れられるのか?という部分が素晴らしい監督過ぎて難しいところです。

 

本音ではこれ以上にシネコンで上映すべき作品はないと思うのですが、興行という点においてはなんとも言い難い。ただ、「たった一人の女の子」のため、今作では要素にない田舎に住む女の子のためには必要な商業への転向だったのかな、と見終わった後に思いました。その結果、今作が多くのスクリーンで、ミニシアター以外でかかったのですから。

もしこの作品をファミリー向けの映画しか見ていない、鬱屈した女の子が見れたとしたら、誰かにとっての僥倖になるような、画面の強さを持った作品ではありますし、監督自身がその機会を増やすために努力している、そんな気がしました。

 

と、かなり宗教的な監督なので、ハマったら最後、のようなところもありますし、独白が賛美歌にも思えますね。

次作も期待していますが、環境的に完全に自由であった自主時代のように、ご本人のお話を望んでいますが、これだけの才能なので、周りが原作を持って次々に現れてそうでほっておいてくれはしなさそうですね…。